最近学生が映画『アバター』を見に行って、おもしろかったと言っていた。デートで行ったらしいのだが、例の3Dメガネをかけて、恐竜みたいなのがブンブン飛びまくるのを体感するような映画である、ロマンチックなデートには向かないような気がするが、うまくいったのだろうか。
『アバター』の広告を見る限り、宇宙人は例の緑の皮膚にラマのようなとんがり耳、ヤブニラミの目、といった設定で、旧套を脱していない印象である。大自然と共存しているのはよいが、乗り物が恐竜みたいなのから察すると、文明も大したことないのだろう。どうも、こういうところにアメリカ映画のものの見方の限界を感じる。映画なのだからおもしろければそれでよいようなものだが、一度白人よりはるかに美しく、地球文明を児戯と思わせる文明を有する宇宙人を主人公とした映画でもつくってみたらどんなものか。
とはいえ、映画はあくまで楽しむため(笑おうと泣こうと)のものであって、人種差別や政治方向を論ずるためのものではない。監督や脚本家個人の考えが作品に反映されることはあるだろうけど、概ね、映画に反映されるのは世間全体の考えや観念であると思われる。宇宙人の皮膚が緑であって白くないとか、耳がとがっているとかいうのは、ちょうどそれであって、有色人種にはおもしろくないかもしれないが、それがアメリカの白人の一般的概念であるということだ。一般概念を改善するのは、映画の仕事ではなく、それを映し出すのが映画の仕事である。ところが、アメリカの一部の政治家や軍の人間は、『アバター』がアメリカやアメリカ軍を中傷する内容を含んでいるといっておかんむりなのだそうだ。映画の宇宙人が信奉している宗教がキリスト教の教えに反するというので、教会からも文句が出る恐れがあるという。緑の肌で、恐竜に乗って空を飛ぶ宇宙人の宗教についてまで、公式に抗議しようというその真摯さには、滑稽を超えて何だかこわくなるようなものがある。
そもそも映画が現実を不当にねじまげたものであれば、観客だっておもしろいとは思うまい。現実を巧みに当てこすっているからこそ、おもしろいと思うのである。当てこすられた者が、それに腹を立てるのは、その当てこすりが図星であるからだ。また、先にも言ったように、映画は一般概念を作り出すものではなく、すでに世上にある一般概念をスクリーンに映し出してみせるものである。政治家や軍が『アバター』を見て「アメリカやアメリカ軍はそんなものではない」と立腹したところで、一般世間はアメリカやアメリカ軍をまさしく「そんなものだ」と見ているのである。映画だからいくぶん誇張はあるとはしても、観客の納得できる範囲だ。だから、『アバター』に何のかのと不満をぶつける人々は、『アバター』が現実を不当に曲げたことにではなく、自分らの気に入るように曲げていないのに不満があるのだと思われる。ただ、本人たちはそうは思っているまい。―彼らは自分たち一部の人間だけが持つ概念を、広く世間一般の人々も持っているものと誤解しているのである。下流に下りたことがなく、上流でばかり暮らしてきた者のあやまちだ。
まじめさがある言葉には説得力があるから、「『アバター』は国や軍を中傷している」という彼らの言葉にも、一応ははっとさせられる。が、よく考えてみれば、彼らの文句は国や軍について彼らだけが有する美しい理想や理念を『アバター』が描いていないという不満に尽きる。しかも、現実を決して美しいとは見ていないアメリカ社会の一般概念をすっかり無視している。先に言ったように、上流が下流に無知であることゆえのあやまちだ。―こんなことは、どこの国、いつの時代でも、しょっちゅうある。
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