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幻臭

 私の友達の1人に、その「におい」に惚れ込んで、何年間もある男の子を追いかけ回していた子がいた。
 もう10年以上前のことであり、当時「ストーカー」という言葉はまだなかったが、だいたいそう言っていいくらいの溺れっぷりだった。もちろん、まるっきり「におい」だけでそこまで夢中になったわけではなかろうと思う。しかし、彼女本人に言わせれば、実にその「におい」こそが、彼女にとって何とも抵抗しがたい、引きずられるように強烈な誘引力なのだ、と主張するのだった。もし、彼の「におい」がなければ、自分は今の半分ほども彼に興味は持てないだろう、とまで極論した。―では、その彼氏が、どんな心ときめかすような香水・オーデコロンをつけていたのかというと、これが全然使っておらず、―まったくの自前、オリジナルの「体臭」しか、身に着けてはいないという。
 どうも「体臭」というと、汗だの垢だの、何やら不潔らしい感じがわくものだ。しかし、そんなに人を迷わせるような「体臭」ならば、ちょっと嗅いでみたい―いや、大いに嗅いでみたい気もする。聞くならく、動物や昆虫にはフェロモンという不思議なにおい物質があって、このにおいのせいで、彼らは矢も盾もたまらず、砂漠をも夜の闇をも飛び越えて、恋人のもとに駆けつけずにいられなくなる、という。私の友達は、実際、ほぼこの状態に近かった。―これはぜひ、一見の価値、いや、一嗅の価値あるにおいだと、判断せざるを得ない。
「で、どんなにおいがすんのやな?たとえば?」
「えー・・・。な、なんやろな?わっからへん・・・
 彼女はたびたび、仕事中も彼のそのにおいを思い出しては、ウットリしている。彼女はその記憶中のにおいを「幻臭」と呼び、精神集中して「幻臭」を現実によみがえらせようと念じたりするのだが、それが上司のつけてきたオーデコロンのにおいで邪魔された、とか言って腹を立てたりしている。それほど全身全霊を打ち込んでいるにおいにもかかわらず、口で説明しようとすると、どうもうまくいかないらしい。たとえようにも似たものがないし、第一、一般の「いい香り」とかとは全然違うらしいのだ。
 こうなると、いよいよ自分の鼻で確かめずにはいられない。幸いにその機会はすぐやってきた。―彼女の車でドライブしている時、そのにおいの彼氏から、「どこそこに迎えに来てくれへん?」と彼女に電話がかかってきたのだ。彼女は狂喜して、私に一言断ってから、そこへ車を走らせた。私が全身を鼻にして、「さあ、今日こそは」と身構えたのは言うまでもない。
「よし、私も、ようにおってみるわ」
「うんうん、におってみて。後で感想きかしてな
 当の彼氏は、そこで待っていた。一見したところ、何がどうということもない、普通の男の子である。中肉中背、二枚目でも三枚目でもなく、取り立てて目に付くところも別にない。しかし、私の期するところは別にある。―彼が友達に詫びを言いながら車内に乗り込んできた時、私はさながらシェパードの生まれ変わりか何かのように、鼻の穴をうんと広げ、音がするくらい思い切りにおいをかいだ。
「・・・?」
 何のにおいも感じられない。
 私は鼻が悪いわけではない。―むしろ、いい方ではないかとさえ自負している。それにしても、車の内装のにおい、歩道のにおい、夜のにおい―そうしたにおいは嗅ぎ取れても、彼の「フェロモン的におい」については、全然、まったく、嗅ぎ取ることが出来なかった。
 彼を送り出した後、私は友人に聞いてみた。
「今日、彼、においしてた?」
「してたよ」
 ・・・
 ―それからずっと後日、彼の「におい」に反応するのは、彼女の知人圏でも彼女自身だけ、ということがわかった。私の鼻がふさがっていたわけではなかったのである。が、そのにおいの彼氏は、後に熱烈な彼女が友人以外に―少なくとも―2人はいた、ということが発覚したから、わかる人にはわかるにおいが、確かにあったとも思えるのである。

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コメント

私のブログへのコメント、
ありがとうございました。

いい文章書いておられるなと
思っていたら、
案の定「トラックバック野郎」の
傑作選トップ3に入っていましたね。
おめでとうございます(^^)。

投稿: こあらばな | 2006/03/07 23:57

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